世界は僕らを待っている!

ジュニア黄金を懐古。特に96-99年が好き。デビュー組ではタキツバとJフレ中心。文学としてのジャニーズ、ジャニーズという文学。ジャニーズ歌詞の物語解析。

KinKi Kids「雨のMelody」の歌詞解析

前回更新から二か月以上空いてしまいました。

まずは腕慣らしということで、理論云々よりもライトに歌詞解析できるものを選んでみました。

 

雨メロは名曲ですよね~!

私は強火黄金期担なので、キンキ見てバックのジュニア見てで大忙しの楽曲です。みんなかわいいしかっこいい!

 という訳で、早速ですがKinKi Kidsの「雨のMelody」の歌詞の物語解析に入りたいと思います。以前の記事でも述べた通り、作詞家の意図とは切り離し、この歌詞をどのように読めるか、といった視点から論じていきます。副題としてー「雨のMelody」の身体感覚ーと付けておきます。

 

 

 著作権上歌詞の全文引用が禁止されているので、歌詞タイムさんからお借りしました。

以下この記事ではこちらのサイトからの引用となります。

www.kasi-time.com

 

問題提起/論点としては以下の三つを挙げたいと思います。

①「ぼく」の志向と<身体感覚>

②唐突なギターの登場

③「モノや形にできない姿」とは

 

まず①では、語られる「ぼく」の志向性を明らかにし、②では、些か唐突に思える「ギター」の登場を考察していきます。そして③では、「きみ」を「こころにしまっておく」手段としての「モノや形にできない姿」が具体的に何を指すのかを明らかにしたいと思います。

 

 

 

①「ぼく」の志向と<身体感覚>

この物語で、「ぼく」は<身体感覚>で「きみ」を捉え、記憶し、反応しています。

それは例えば、以下のような記述から看取できます。

好きだよ 壊したいくらい 

夢中できみを抱いたね

好きだよ 今でもリアルさ 

きみからもらったキスは

▶「触覚」 で「きみ」を記憶している「ぼく」。「ぼく」は「きみ」のキスの感覚が今でもリアルであると語っている。

 

きみのウワサ 気になってた

次の彼のことも聞いたよ 

▶「ウワサ」や「聞く」という行為によって現在の「きみ」を「聴覚」で捉えている。

 

戸惑う頬に 触れたのは 

温もり覚えてたくて

 

▶「頬に触れ」て「温もり」を記憶する。「きみ」を「触覚」で記憶しようという意図。

 

雨に煙る駅の前で 

不意にきみと すれ違ったよ

ずっと会わないようにしたのに

忘れようとしたのに

きみの香りに凍り付いてたよ

 

 ▶不意の再会で「きみの香り」に凍り付く「ぼく」。「きみ」を前にし、「嗅覚」がまず初めに反応している。

 

このように、「ぼく」は<身体感覚>で「きみ」を認識しているのです。

 

②唐突なギターの登場

雨はギターの涙と叫び

悲しみだけ 包んでく

過ぎた時間はもう戻せない

それはそうさ 確かに そうだけど

 

 

雨はギターの涙と痛み

(以下略)

 

 

雨はギターの涙と迷い

(以下略)

 

 

▶「雨」=「ギター」の「涙」+「叫び」/「痛み」/「迷い」

▶「ギター」はその音で聴覚を刺激する楽器。

▶「涙」(温度/濡れる)は触覚、「叫び」は聴覚、「痛み」は触覚を刺激。では「迷い」は?(←今後の課題)

▶「雨」が他のものに転位することによって、聴覚/触覚といった<身体感覚>へと接近している。

 

些か唐突なギターの登場も、雨を<身体感覚>へと転換させるための装置として読解すれば理解可能です。

 

③モノや形にできない姿とは

Ah 捨てずにいたペアリング

明日 森の奥に隠そう

でも ぼくはきみをこころに

しまっておくだろう

モノや形にできない姿で

 

▶「ぼく」はペアリングという「きみ」との想い出のつまった「モノ」を一時的に目の届かない所に隱す決心をする。

▶「きみ」を「こころにしまっておく」手段としての「モノや形に出来ない姿」。

 

①②で述べてきたように、この物語を<身体感覚>に沿って読解していくとすると、「モノや形に出来ない姿」=<身体感覚>そのものであると読めるのではないでしょうか。つまり、「ぼく」は「きみ」を記憶としてではなく、<感覚>としてしまい続けるのです。<感覚>はモノや形として実体化不可能なものであるため、文意とも矛盾しません。

 

 

 まとめ

この物語において、「ぼく」は「きみ」を<身体感覚>で捉える人物として語られています。「ぼく」は触覚や聴覚、嗅覚で「きみ」に反応し、「きみ」を記憶します。と同時に、「ぼく」には視覚が欠落していることに気が付きます。

物事を<身体感覚>で捉える「ぼく」の志向によって、「雨」は<身体感覚>へと変換されていきます。我々は「雨」を視覚、或いは聴覚(=音)を通して認識し、その触覚(温度/濡れる)で体感します。このように<身体感覚>と一応の関わりを持つ「雨」は、サビにおいて「ギター」の「涙」と「叫び」/「痛み」/「迷い」へと転位します。「ギター」はその音で聴覚を刺激する楽器です。「涙」(温度/濡れる)は触覚、「叫び」は聴覚、「痛み」は触覚を刺激します。「雨」はこの転位によって、直接的な<身体感覚>へと変容されるのです。

物語の最後で、語り手「ぼく」は「ぼくの空に静かに雨が降る」と語ります。つまり、「ぼく」は自分を客体として認識する視点/相対化する視点(=視覚)を獲得したと言えます。「ぼく」は物語の最後で欠落していた視覚を手に入れましたが、これは「ぼく」が<身体感覚>を放棄せず、これからも<身体感覚>と共に生きて行くことを示唆しているのではないでしょうか。このことは、「モノや形に出来ない姿」=<身体感覚>で「きみ」を「こころにしまっておく」という「ぼく」の決意からも看取できると思われます。

 

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いくつか課題は残りますが、まずはこの位で。

 今回は<身体感覚>に論点を絞ってしまったのですが、「雨のMelody」物語は様々な視点から考察可能だと思います。

ぱっと思いついたものですと、例えば<時間>という視点からこの物語を論じることも出来ますね。「一称過去回想体」として語られ始めたこの物語がいつの間にか「明日」という「未来」を語り出します。「過ぎた時間はもう戻せない」という自分の語り反応し、「それはそうさ 確かにそうだけど」と割り切れない気持ちを表出する語り手「ぼく」。雨メロにおける<時間>とは? うーん、やっぱり「雨のMelody」も論文書けますね~!